床に落ちたトーストは、申し合わせたようにバターの面を下にする。長年、それは運の悪さの代名詞だった。
要点:バタートーストがバターの面から落ちる件を検証した。原因としてよく言われる「バターの重さ」も「空気抵抗」も、1995年の物理学者ロバート・マシューズの論文によれば無視できるほど小さい。本当の理由はテーブルの高さ(約75cm)とパンの大きさの組み合わせで、パンは床に着くまでに半回転しかできない。2001年の英国での落下実験では9,821回のうち6,101回、62%がバター面から着地し、この研究は1996年のイグノーベル賞物理学賞を受けている。しかも人間の身長には物理的な上限があり、テーブルをそれ以上高くする逃げ道もない。
床に落ちたトーストは、判で押したようにバターを塗った面を下にする。運の悪さで片づけられ、専用の名前までついている。マーフィーの法則、というやつだ。
言われ始めたのは、いつからか
この言い伝えの文字記録は19世紀半ばまでさかのぼるとされる。よく引かれるのは1884年、作家ジェームズ・ペインが書いたパロディ詩で、パンを落とせば必ずバター側から床に落ちる、という一節がそこにある。ただし記録がそれより前の時期にもあるらしく、この詩が起源だと言い切る根拠は薄い。誰が言い出したかより先に、誰が確かめたかを追うほうが、この件は生産的だ。
放り投げるだけなら、五分五分
長らく、これは単なる思い込みだと考えられてきた。悪い結果だけを覚えていて、良い結果は忘れる、という説明である。1991年、英国のBBCの科学番組がこれを検証していて、バターを塗ったパンを300回、宙に放り投げている。結果は統計的に五分五分から見分けがつかなかった。パンをただ放り投げるだけなら、マーフィーの法則は出てこない。ここで話が終わっていれば、ただの迷信の話になっていた。
| よくある説明 | 判定 |
|---|---|
| バターの重さで傾く | 否定。バターは約4g、パンは約35g。薄く塗られて生地に染み込み、回転のしやすさへの影響はほぼ無い |
| バター側の空気抵抗が違う | 否定。効くにはテーブルの何倍もの高さ(目安8m前後)から落とす必要がある |
| ただの運・記憶の偏り | 条件つきで否定。放り投げれば五分五分だが、テーブルから滑り落ちる自然な状況では偏りが出る |
半分しか回らない、という理由
1995年、物理学者ロバート・A・J・マシューズが専門誌『European Journal of Physics』に発表した論文が、この件に決着をつけている。パンがテーブルの端からずり落ちるとき、重力によるてこの力(トルク)で回転が始まる。問題は、その回転がどこで止まるかだ。台所のテーブルはだいたい高さ75センチ。この高さでパンが床に着くまでに稼げる回転量は、実測でおよそ4分の1回転にとどまる。パンは最初「バター面が上」の状態から傾き始めるので、4分の1回転した先はちょうど真横。さらに転がって半回転(180度)まで進んだところで、床に到達してしまう。バター面が上に戻るには、そこからもう半分、360度近くまで回り続けなければならない。パンにも食パンにも、それだけの勢いは残っていない。
マシューズはこれを数値でも確かめている。パンがテーブルの端から離れて自由落下に移る条件を「せり出しパラメータ」という数値で表すと、実測値は食パンでおよそ0.015、焼く前のパンでも0.02程度だった。バター面を上のまま着地させるには、この数値が0.06を超えている必要がある。実際のパンは、その4分の1ほどしかない。
テーブルを高くすればいいのでは
回転が足りないなら、テーブルを高くすれば解決するはずだ。計算上、必要な高さはおよそ3メートル。今の食卓のおよそ4倍にあたる。だが、ここでもう一つの物理が立ちはだかる。マシューズは、人間の背丈にも物理的な上限があることを示した。頭部が骨折せずに耐えられる衝撃には限りがあり、その計算から導かれる人類の身長の上限は、やはりおよそ3メートル。現在確認されている史上最も背の高い人物、ロバート・ワドロー(1918-1940)の身長は2.72メートルで、この上限に収まっている。テーブルは通常、人の背丈のおよそ半分の高さで作られる。人類が3メートルを超えられない以上、テーブルもその半分、1.5メートルを大きく超えることはない。パンの回転を完成させるのに必要な3メートルには、逃げ場がないまま届かない。
1,000人が21,000回落とした
2001年、マシューズは自説を実地で確かめるため、英国全土の学校を巻き込んだ実験を呼びかけた。約1,000人の児童・生徒が参加し、記録されたのは計21,000回の落下。集計できた9,821回のうち6,101回、割合にして62%がバター面から着地した。五分五分どころではない偏りである。この研究は1996年のイグノーベル賞物理学賞を受けている(イグノーベル賞は「まず笑わせ、そして考えさせる」研究に贈られる賞で、悪ふざけの賞ではない)。実験でも笑いでもなく、まじめな力学の話としてである。
回避策は、加速すること
対策も論文に書かれている。パンがテーブルの端に差しかかった瞬間、手で軽く弾いて水平方向の勢いをつける。あるいは皿ごと素早く手前に引く。どちらも、パンが重力の影響を受ける時間そのものを短くする発想である。目安の速さは秒速1.6メートル。日常でパンを押し出す動作は、たいていこれより遅い。
念のため、62%という数字は自分でも割り算した。6,101÷9,821で、0.6212。報道の値と一致している。ただし当時の英国の新聞記事そのものには、今回たどり着けていない。孫引きの範囲で確認した数字だということは、ここに書いておく。
バターの重さのせいではなかった。運が悪いわけでもなかった。悪いのは、テーブルの高さと人間の背丈の、ちょうど噛み合わない組み合わせのほうだった。以上だ。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.28
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