「全然大丈夫」は誤用、と言われてきた。この決まりが言い出された時期には、たどれる記録が3段階ある。
要点:「全然」の後ろには打ち消しが来る。この決まりを、国語学の側は「迷信」と呼んでいます。「全然」が日本語に入ったのは江戸後期で、当時は肯定にも否定にも付きました。夏目漱石も芥川龍之介も、打ち消しを伴わない「全然」を書いています。決まりが世の中に広まったのは戦後です。そして会話1,534件を数えた研究によると、いま「全然いい」に押されているのは「全然〜ない」ではありませんでした。
「全然」の後ろには打ち消しが来る。そう教わった記憶のある人は、少なくないはずです。「全然大丈夫です」と言われるたび、頭の中で赤ペンが一本動く。その感覚自体は本物で、たしかにどこかで植えつけられたものです。
問題は、いつ、誰が植えたのかです。ここでは正しい・正しくないを裁定しません。私の仕事は、この決まりがどこから来てどう広まったかをたどることだけです。順番は、いま立っている場所から一歩ずつ後ろへ下がっていきます。
現在地。辞書は、思っているより慎重に書いている
まず足元を見ます。「誤用だ」と赤ペンを持たされた側の根拠は、たいてい辞書です。では辞書は実際に何と書いているのか。所沢市立所沢図書館がこの質問に答えたレファレンス記録が公開されているので、そこに並んだ6冊を借ります。
| 辞典 | 年 | 「全然+肯定」についての書きぶり |
|---|---|---|
| 日本国語大辞典 第8巻 | 2001 | 「もともとは肯定的にも否定的にも使うことができた。否定表現との結びつきが強まるのは大正末から昭和にかけてである」 |
| 日本俗語大辞典 | 2003 | 明治は肯定で「すっかり、全部」の意。明治末から昭和にかけて否定形が優勢に。「戦後、昭和二十年代半ばにまた肯定形と共起し」 |
| 岩波日本語使い方考え方辞典 | 2003 | 「もともとは『すっかり』といった意味を表し、肯定表現にも使われた」。程度の強調は「やや俗語的」 |
| 大辞林 | 2006 | 肯定を伴う程度の強調は「俗用である」 |
| 岩波国語辞典 | 2011 | 「すっかり。全面的に」の肯定は載る。ただし「非常に」「断然」の意に使うのは誤用 |
| 大きな活字の新明解国語辞典 | 2012 | 否定と呼応するのが本文。「古くからあった」否定を伴わない「非常に」の用法も最近は多くなった |
「誤用」と言い切っているのは、6冊のうち1冊です。しかもその1冊も、「すっかり」の意味であれば肯定を認めています。残りは「俗用」「やや俗語的」という書き分けで、これは間違いという判定ではありません。話し言葉寄りだ、あらたまった場では避けたほうがよい、という距離の取り方です。
学校で受け取った赤ペンと、辞書が書いている温度には差があります。(差があるまま、赤ペンだけが配られてきたことになります。)
一歩前。決まりが広まったのは、戦後
国立国語研究所の新野直哉氏は、「“全然”は本来否定を伴う副詞である」という考えを、論文の書き出しでこう位置づけています。国語史上の客観的事実と反しており、「迷信」と呼ぶべきものである、と。研究者が名指しで迷信と書くのは、なかなかの強さです。
新野氏らの調べによれば、この規範意識が確認できるのは戦後、昭和20年代の後半です。そこから急速に浸透しました。時期を絞る手がかりのひとつが雑誌『言語生活』で、昭和28〜29年(1953〜54年)に「最近“全然”が正しく使われていない」という趣旨の記事が集中して見られる、という指摘があります。
さらに、辞書の側の事情も重なります。昭和40年代の副詞研究が陳述副詞の呼応に重心を置いたこと、そして当時は用例の実態調査が足りていなかったこと。理屈の上で分類を立てる必要があり、肯定との呼応は無いものとするか、誤用・俗用として脇に置かれた。そう説明されています。
実態を調べる前に整理棚を作ってしまい、棚に入らないものを間違い扱いにした。順番が逆だった、という話です。
二歩前。1935年と1943年に、叱っている本が2冊ある
では戦前はどうだったのか。ここに、国語学者の浅野信(1905〜1984)という名前が出てきます。
浅野の『国語の匂ひと韻』(1935年)には、当時の子どもの口調として「全然このお菓子好きだわ」というセリフが挙げられ、強く非難されています。年代だけ見れば、これが「初出」に見えます。
ところが、新野氏の読みは違います。同じ本の中で、浅野自身が「必ずしも全然一致するものではない」と書いている。打ち消しではない語に「全然」を付けているわけです。さらに浅野は、同時期に「断然飯くはう」「断然テニスをしよう」といった言い回しも同じ調子で叩いています。叱っていた対象は肯定との呼応ではなく、<完全に。何から何まで>という本来の意味を失った、音の勢いだけの使い方だった。新野氏はそう整理しています。
浅野が「全然」の呼応そのものに触れたのは、1943年の『俗語の考察』のほうです。現在確認されている限り、呼応に関する意識が直接示された最も古い記述とされます。ただし、そこでの浅野は「全然」が「半ば消極語をも取る」と書いています。つまり「全然違う」「全然だめ」までは許容範囲だった。戦後の迷信の厳しさに比べると、だいぶ緩い線引きです。
新野氏らは、昭和10年代(1935〜1944年)の国語学・国語教育・日本語教育の専門誌を調べて、この規範意識を示す記述が見当たらないこと、逆に今日なら誤用とされる肯定の用例が少なからずあることを報告しています。決まりは、まだ社会に降りてきていませんでした。
三歩前。漱石も芥川も、普通に書いている
「全然」が日本語に入ったのは江戸後期で、中国語からの借用です。意味は<すべて、まるまる全部>。日本語として定着するのは明治40年代以降とされ、この時期は肯定でも否定でも使えました。当初は「ねっから」「すっかり」「そっくり」といった和語の振り仮名を添えて書かれることも多かったそうです。
実例が残っています。
そこで三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした(夏目漱石『三四郎』)
この老婆の生死が、全然自分の意志に支配されているということを意識した(芥川龍之介『羅生門』)
どちらも打ち消しがありません。否定的な呼応語も付いていません。現在なら赤ペンが入る形が、当時の正しい形でした。
ここで、変化の向きを言い直しておきます。「否定から肯定へ変わった」ではありません。もともとあった肯定が昭和前期にいったん使われなくなり、昭和20年以後にまた出てきた。復活のほうが、実態に近い言い方です。
数えた人がいる。1,534件の内訳
では、いまどう使われているのか。佐野真一郎氏が2012年に発表した研究では、『日本語話し言葉コーパス』の全3,302講演から「ゼンゼン」を検索し、相づちや言いさしを除いて残った1,534件を、呼応する語で3つに分けています。
| 分類 | 例 | 件数 | 比率 |
|---|---|---|---|
| 否定辞 | 全然〜ない/〜ず | 1,112 | 72.49% |
| 伝統形(否定的な内容) | 全然違う/全然だめ | 263 | 17.14% |
| 革新形(肯定的な内容) | 全然いい/全然大丈夫 | 159 | 10.37% |
細かい内訳も出ています。否定辞では「ない」が613件。伝統形では「違う」が198件で過半数を占めます。そして革新形の上位は「いい」14件、「大丈夫」10件、「平気」8件。
この記事も含めて、世間はこの用法を「全然大丈夫」で代表させてきました。実数では「いい」のほうが多いようです。(代表に選ばれる語と、よく使われる語は別ものです。)
押されているのは「〜ない」ではない
ここからが、この研究のいちばん静かな指摘です。
話者の生まれ年で並べると、革新形は1930年代生まれで最も低く、1980年代生まれに向かってほぼ一定の速さで増えます。1980年代生まれの層では、革新形が伝統形を追い抜いています。一方で否定辞のほうは、減ってはいるものの傾きがゆるく、伝統形とほぼ同じ道筋をたどっている。
佐野氏の結論は、革新形が取って代わっているのは否定辞ではなく伝統形だ、というものです。つまり「全然いい」が場所を奪っているのは「全然よくない」ではありません。「全然違う」のほうです。
長らく敵同士だと思われていた「全然〜ない」と「全然いい」は、そもそも同じ椅子を取り合っていませんでした。(喧嘩の相手を間違えていた、ということになります。)
場面差も数字に出ています。発話スタイルを5段階に分けたとき、いちばんくだけた段階では革新形が15.85%。いちばんあらたまった段階では、17件中0件でした。叱られている自覚は、どうやらきちんと機能しています。
確かめられた範囲と、確かめられていない範囲
たどれたのは、ここまでです。整理しておきます。
確かめられていること。江戸後期の借用当初、「全然」は肯定にも否定にも付いたこと(複数の辞典と研究が一致)。明治の文学作品に打ち消しを伴わない用例があること。「本来否定を伴う」という規範意識が社会に広く浸透したのは戦後で、昭和20年代後半から確認できること。昭和10年代の専門誌には、その規範意識を示す記述が見当たらないこと。
確かめられていないこと。肯定用法が昭和前期にいったん使われなくなった理由は、「明確な理由は明らかになっていない」と書かれています。そして、誰が最初に言い出したのか。1935年と1943年の浅野信の記述は現在たどれる最も古い部類ですが、1935年のほうは呼応の話ではないと読めます。言い出した一人の名前を出せる段階には、まだありません。
最後に一つだけ。1,534件のうち、最も多かった呼応の相手は「ない」で613件でした。決まりを気にしても気にしなくても、私たちは結局、打ち消しと一緒に「全然」を使っています。赤ペンの出番は、思っていたよりずっと少なかったようです。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.05
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