Lorem ipsum の69語を原文と照らした。原文に無い28語には共通のやり方があり、由来の説明も今年ひとつ消えた。
要点:仮組み中のWebや紙面で見かける「Lorem ipsum dolor sit amet...」。意味のないラテン語風の文字列、と説明されがちですが、元は実在するキケロの文章です。標準版の69語を原文と1語ずつ照らしたところ、そのままの形で残っていたのは41語。残る28語も、無から作られたものではありませんでした。そして冒頭の「Lorem」は、そもそも単語ですらない。おまけに、長く世界中でコピーされてきた「1500年代の印刷業者が」という由来の説明が、今年になって書き換わっています。言い出した本人の証言つきで。
チャチャ:デザインの仮組みに入っている、あの文字列の話をします。「Lorem ipsum dolor sit amet, consectetur adipiscing elit」。意味は無い、ということになっています。(無いことになっている、というのが今日の入口です。)
アソブ:知ってます知ってます。ラテン語っぽいけどラテン語じゃないやつ。適当に作った文字列ですよね。
チャチャ:そう説明している資料は多いですね。ただ、出どころは特定されています。紀元前45年ごろのキケロ『善と悪の究極について(De finibus bonorum et malorum)』、第1巻の32節と33節です。
アソブ:2000年前! じゃあ、どれくらい原文のままなのか数えます。今から数えます。
チャチャ:(始まりました。)
69語のうち、41語
アソブ:数えました。ダミー文の参照元として長く使われているサイト lipsum.com が「1966年以降の標準版」として載せている段落、あれがちょうど69語です。同じページに並んでいるキケロの原文(32節と33節、合わせて249語)と、1語ずつ突き合わせました。大文字小文字と句読点は無視して、綴りが1文字も違わないものだけを一致とします。
アソブ:結果、41語がそのままの形で原文にありました。69語中の41語、ちょうど6割です。sit、amet、dolor、labore、culpa、officia、deserunt——このへんは全部、2000年前の文章から1文字も動いていません。
チャチャ:では残りの28語は、どこから来たものですか。
アソブ:そこなんですよ。28語ぜんぶ調べたんですけど、どれも新しく発明された語ではありませんでした。全部が原文の語の変形です。やり方は3つしかない。語尾を削る/文字を足す/2語をくっつける。
アソブ:削った例。原文の magnam が magna、aliquam が aliqua、minima が minim、consequatur が consequat。足した例。incidunt に di が入って incididunt、iure に r が入って irure、illum に c がついて cillum。くっつけた例がいちばん派手で、原文で2語に分かれている eius modi が eiusmod、ullam corporis の前半と後半をつまんで ullamco。
チャチャ:削る、足す、くっつける。要するに、読める文章に見えるが読めない状態を、手で作っている。ダミー文としてはそれが正解ですね。意味が通ってしまったら、レイアウトではなく文章が読まれてしまう。
アソブ:あ、そうか。読めなくするのが仕事だから、わざと壊してるんだ。
チャチャ:(今それに気づいたんですか。)
「Lorem」は、単語ではない
チャチャ:28語のうち1語だけ、成り立ちが特殊です。いちばん有名なやつ。Lorem。
アソブ:あれ、そういえば原文に無かったです。lorem で検索しても引っかからなかった。
チャチャ:原文にあるのは dolorem(苦痛そのものを)です。ここから頭の do が落ちている。なぜ落ちたか。本のページが変わったからです。
1914年に出たローブ・クラシカル・ライブラリー版『善と悪の究極について』(H・ラッカム訳)は、左の偶数ページにラテン語原文を置いていました。34ページの行末が「Neque porro quisquam est qui do-」で切れ、36ページの冒頭が「lorem ipsum ...」から始まります。
アソブ:改ページのハイフン。単語の途中で切れたところを、そのまま先頭だと思って写した?
チャチャ:そう読むのが自然です。この見立てを整理したのはフランスの社会学者フィリップ・シボワで、2012年の記事で1914年版のページ割りを根拠に挙げています。以降のダミー文が56、70、118ページあたりの配置とも符合する、という指摘も添えられている。
アソブ:世界中の仮組み画面に出てくるあの単語、正体はページの継ぎ目ということですか。
チャチャ:継ぎ目です。しかも1914年の紙の本の。
「1500年代の印刷業者」は、誰が言い出したか
チャチャ:ここからが本題です。Lorem ipsum の由来を検索すると、長いあいだ、ほぼ同じ一文が出てきました。「1500年代、名も知れぬ印刷業者が活字の見本のために文章をかき混ぜた」。ダミー文の解説ページも、デザインの入門書も、この筋書きを引いていました。
アソブ:僕もそれ知ってます。ルネサンスの印刷屋さんのやつ。
チャチャ:出どころをたどります。1994年、米ハムデン=シドニー大学のラテン語学者リチャード・マクリントックが、デザイン誌『Before & After』の編集者ジョン・マクウェイド宛てに手紙を書きました。同誌が「Lorem ipsum は意図的に無意味なもの」と書いたのに対する訂正です。マクリントックは、めったに使われないラテン語 consectetur を辞書と用例で追いかけて、キケロにたどり着いていた。この手紙が、由来の出典です。
アソブ:consectetur から逆引き。いい追い方だ。
チャチャ:問題は、その手紙に「1500年代から使われていた」と添えられていたことです。そしてマクリントック本人が2026年、その日付には根拠が無かった、推測だったと述べました。YouTubeチャンネル「Rabbit Hole」のエミリー・リン・ジャンによる取材で、2026年5月30日公開のものです。
アソブ:え。32年間まわってた由来が、書き添えの一言だったんですか。
チャチャ:そう伝えられています。本人が「まさかみんなが真に受けるとは思わなかった」という趣旨で語ったと、この取材をまとめた記事は書いています。(言った側が困っている、という珍しい型の伝言ゲームです。)
1966年、ロンドンの図書館員
チャチャ:では、実際にいつ始まったのか。現在たどれる最も古い形は1966年、レトラセット社の転写シートです。文字のシールを紙にこすりつけて版下を作る、写植以前の道具ですね。本文用の書体見本として、Lorem ipsum を刷ったシートが作られた。
アソブ:誰が選んだんですか、その文章を。
チャチャ:レトラセットの初期デザイナーだったデイヴ・フェアリーが、先ほどの取材者にメールで経緯を伝えています。1966年の販促会議で宣伝デザイン部門のコリン・オーチャードが「ダミー文のシートがあると仕事に使える」と発言した。社はロンドンのセント・ブライド印刷図書館と関係が深く、そこの主任司書ジェームズ・モズリーに相談した——という筋です。モズリーは印刷と書体の歴史を専門とする研究者で、ヨーロッパや米国の活字鋳造所がそれぞれ自国語のダミー文を使っていることを知っていて、その代わりになるものを探した。
アソブ:本人に聞けば全部わかるじゃないですか。
チャチャ:モズリーは2025年に亡くなっています。なぜキケロのその箇所だったのか、なぜあの形に崩したのかは、もう本人には聞けません。
アソブ:……あ。
チャチャ:(そういう終わり方の資料は、珍しくありません。)
1987年、打ち間違いがそのまま残る
チャチャ:紙からパソコンへの移し替えにも、記録があります。1987年、デスクトップ出版ソフト Aldus PageMaker に Lorem ipsum を入れたのはローラ・ペリーという人物で、レトラセットを使っていた頃に見覚えがあった文章を採用した。ただし手で打ち直したので、打ち間違いが混ざりました。
アソブ:直さなかったんですか。
チャチャ:著作権の扱いが分からなかったため、むしろ誤字を残したほうが安全だと考えた——と本人が語っています。consectetuer(e がひとつ多い)、nibh、zzril といった見慣れない綴りは、この経路で入ったものだと取材はまとめています。
アソブ:39年前のタイプミスが、いまも世界中の仮組み画面に出てるってことですか。それ、けっこうすごくないですか。
チャチャ:すごい、を禁止されているので言い換えます。よく生き延びました。
ついでに測った:「英語に寄せて崩した」のか
アソブ:もうひとつ気になったので測りました。この崩し方には説があって、モノタイプ社の書体研究者ダン・ラティガンは、レトラセット版が英語の文字の出方に近づくよう意図的に崩されたのではないかと述べています。ダミー文は英語圏のレイアウトに置かれるので、見た目の「文字の混ざり具合」が英語に似ているほうが都合がいい、という理屈です。
アソブ:で、測れます。同じページに、キケロのラテン語原文と、1914年のラッカムによる英訳が並んでいる。崩したダミー文・崩す前のラテン語・同じ内容の英語、3つの文字の出方を比べられるわけです。行きます。
| 文字 | ダミー文(369字) | ラテン語原文(1,436字) | 英訳(1,598字) |
|---|---|---|---|
| e | 10.3% | 11.4% | 13.1% |
| i | 11.4% | 10.8% | 6.8% |
| u | 7.9% | 9.2% | 4.4% |
| h | 0.3%(1回) | 0.4% | 4.8% |
| w | 0% | 0% | 1.9% |
| y | 0% | 0% | 1.5% |
| k | 0% | 0% | 0.6% |
アソブ:26文字ぶんの差を足し合わせると、英訳からの隔たりはダミー文が36.1、崩す前のラテン語原文が35.6。崩したほうが、わずかに遠い。j・k・w・y・z は1文字も出てきません。h にいたっては369字のうち1回きりで、英語なら5%近くを占める文字です。
チャチャ:つまり、英語には寄っていない。
アソブ:寄ってないです。……これ、測る前から分かってましたか。
チャチャ:ラテン語に w と y が無いことは、はい。ただここは慎重にいきましょう。私たちが測ったのは lipsum.com の標準版69語だけで、ラティガン氏が想定しているレトラセットのシート全体ではありません。1966年のシートには j・k・y・z を含む綴りが足されていたという指摘があり、実際 PageMaker 系の版には zzril が入っている。今回の数字は、あの説の反証にはなりません。「いちばん普及した69語には、その痕跡が出ていない」までです。
アソブ:ぬか喜びでした。
で、今年なにが書き換わったか
チャチャ:最後にひとつ。参照元として長く使われてきた lipsum.com の説明文を、2026年8月7日に開いて読みました。冒頭はこうなっています。「Lorem Ipsum は1966年以来、業界標準のダミー文である。レトラセットのデザイナーたちと、ロンドンのセント・ブライド印刷図書館の司書ジェームズ・モズリーが、1914年のキケロの翻訳を取ってかき混ぜ、レトラセットの本文書体シート用のダミー文にした」。
アソブ:1500年代の印刷業者、いない。
チャチャ:いません。2026年の取材のあと、複数のダミー文解説サイトが由来の記述を改めた、と報じられています。私たちが今日読めるのは、その改訂後の文面です。(世界でいちばん意味のない文章の由来書きが、いちばん真面目に訂正された、という一日でした。)
アソブ:まとめると、意味が無いと言われていた文章には意味があって、由来があると言われていた説明のほうに根拠が無かった。逆じゃないですか。
チャチャ:逆でしたね。以上です。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.07
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