カタツムリの世界記録を秒速に直そうとして、手が止まった。31年動いていない数字が、主催者と現場と報道でそろわない。
要点:英ノーフォーク州コンガムで毎年7月に開かれる「世界カタツムリレース選手権」。1995年にアーチーというカタツムリが出した記録は、2026年7月18日の大会でも破られませんでした。31年です。その速さを秒速に直そうとしたら、タイムもコース長も資料によって数字が違い、直せませんでした。2008年以降の優勝タイム16回ぶんを並べ、路面と速度の関係を調べた2021年の論文まで見にいって、それでも1つに決まりませんでした。
先に言っておきます。これは速い生き物の話ではありません。
イギリスのノーフォーク州に、コンガムという小さな村があります。ここで毎年7月の土曜日に「World Snail Racing Championships(世界カタツムリレース選手権)」が開かれています。1960年代、創始者のトム・エルウェスがフランスでカタツムリのレースを見て持ち帰ったのが始まり、と大会公式サイトは書いています。会場はグリムストン・クリケットクラブ。売上は地元の聖アンドリュース教会に入ります。
コースの作り方が、いい。テーブルに白い布をかけ、中央に円をひとつ。そこから13インチ(約33センチ)離したところに、もうひとつ円。選手は内側の円に集められ、外側の円に最初に鼻先を出した個体が勝ちです。トラックではなく、放射状。どっちに進んでもいいわけです。
号令は「Ready, Steady, SLOW!」。スネイルマスターと呼ばれる進行役が布を濡らし続けます。カタツムリは湿ったところが好きだからで、これは路面整備です。優勝賞品はレタスを詰めた銀のタンカード。参加費は1ポンド、手持ちのカタツムリがいなければ大会の「厩舎」から借りられます。厩舎。
31年、誰も届いていない
この大会には世界記録があります。1995年、アーチーという名前のカタツムリが13インチを2分00秒。トレーナーはカール・ブラムハム。ギネス世界記録にも「Fastest snail racing」として登録されていて、レース後のアーチーはキャベツ畑へ種牡馬として送られた、とギネス側は書いています。種牡馬。
そして大会公式サイトには、こう書いてあります。この記録に挑戦できるのはコンガムの大会だけ。あと、巨大な外国産のカタツムリは出場できません。取り締まられているのはドーピングではなく、体格です。
2026年7月18日の大会は271匹・18ヒートで争われ、優勝はスナイラー・スウィフト、3分13秒。届きませんでした。1995年から31年、記録は動いていません。
で、僕はここで思ったわけです。31年って、どのくらいの速さなんだろう。秒速に直せば感覚がつかめる。33センチ割る120秒、はい終わり——のはずでした。
資料をそろえたら、3か所ずれた
割り算をする前に、いつもどおり数字の出どころを確かめました。そこで止まりました。
| 項目 | 大会公式サイト/ギネス世界記録 | ロイター(2024年7月6日の現地取材) |
|---|---|---|
| アーチーの記録タイム | 2分00秒 | 2分20秒 |
| コースの長さ | 13インチ(約33.0cm) | 13.5インチ(約34.3cm) |
| 2024年優勝ジェフのタイム | 4分05秒 | 4分03秒 |
3か所です。しかもロイターの13.5インチは記者の勘違いではなく、映像の中でスネイルマスター本人が「13.5インチのコース」と説明しています。現場の人と主催サイトが違うことを言っている状態。
ちなみに英語版Wikipediaは「伝統的に13または14インチ」と書いていて、幅を持たせることで逃げています。賢い。
組み合わせて計算すると、こうなります。
| 読み方 | 秒速 | 時速 | 100mにかかる時間 |
|---|---|---|---|
| 13.5インチ ÷ 120秒(最速の読み) | 2.86mm | 約10.3m | 約9時間43分 |
| 13インチ ÷ 120秒(公式どうしの組み合わせ) | 2.75mm | 約9.9m | 約10時間06分 |
| 13インチ ÷ 140秒(最も遅い読み) | 2.36mm | 約8.5m | 約11時間47分 |
幅にして約21パーセント。100メートル換算で2時間ちょっとの差です。31年動いていない記録の中身が、2時間ぶんぼやけている。
いちおう補助線があって、ギネスの記録が引用される際によく出てくる「時速0.006マイル」という値は、13インチ÷120秒(=時速9.9m)を丸めたものと一致します。公式どうしの組み合わせが本命だとは思います。思いますが、思うだけです。
13インチ÷120秒。時速9.9メートル。人の歩く速さのおよそ404分の1。フルマラソンを走り切るには約178日、5か月半かかります。
19年ぶんの優勝タイムを並べた
アーチーがどれくらい飛び抜けているのかも見たかったので、大会公式サイトが載せている2008年以降の優勝タイムを全部書き出しました。16回ぶんあります。僕は這えないので、代わりに数えるほうをやります。
| 年 | 優勝 | タイム |
|---|---|---|
| 2026 | スナイラー・スウィフト | 3分13秒 |
| 2025 | ビルボ・スラギンズ | 2分11秒 |
| 2024 | ジェフ | 4分05秒 |
| 2023 | レティ | 7分24秒 |
| 2019 | サミー | 2分38秒 |
| 2018 | ホスタ | 3分10秒 |
| 2017 | ラリー | 2分47秒 |
| 2016 | ハービー2 | 3分25秒 |
| 2015 | ジョージ | 2分45秒 |
| 2014 | ウェルズ | 3分19秒 |
| 2013 | レーサーII | 2分47秒 |
| 2012 | レーサー | 3分20秒 |
| 2011 | ズーマー | 3分23秒 |
| 2010 | シドニー | 3分41秒 |
| 2009 | テリー | 2分49秒 |
| 2008 | ハイッキ | 3分02秒 |
平均3分22秒、中央値およそ3分12秒。最遅は2023年のレティで7分24秒、これはもう散歩です。そして最速は2025年のビルボ・スラギンズの2分11秒。アーチーまで、11秒。
去年、31年ぶりに惜しいところまで来ていたわけです。それで今年が3分13秒。優勝タイムは、速いほうへ収束していきません。ばらけたままです。
もうひとつ気づいたことがあって、この16回のうち2分台は6回、アーチーの120秒を下回った回は0回。2分00秒は、優勝タイムの分布の端っこにぽつんと置かれている。誰も近づけないというより、この競技の記録はその年たまたま調子のいい1匹が出た回にしか動かないように見えます。
速さを決めているのは、たぶんカタツムリではない
そもそもカタツムリの速さって何で決まるんだ、と思って論文を探しました。あります。セント・アンドルーズ大学のペンバリー・スミスとラクストンによる2021年の研究(Journal of Zoology 314巻)で、そのものずばり「How fast is a snail's pace?(カタツムリの歩みってどのくらい速いの?)」というタイトルです。研究者にも同じことを思う人がいる。
抄録によると、対象はレースに使われるのと同じヨーロッパのマイマイ(Cornu aspersum)。路面の質感と傾きは速度に強く効き、体の大きさと、他の個体が残した粘液の跡があるかどうかは効かなかった。粗いサンドペーパーの上では、研磨粒子が大きいほど遅くなるという反比例の関係もはっきり出ています。なお僕が読めたのは抄録までで、本文の数値は確認できていません。
これ、大会の運営が理にかなっているという話でもあります。スネイルマスターが布を濡らし続けるのは、選手の気分ではなく路面のグリップを管理していることになる。競馬場の馬場状態と同じ扱いです。
そして体の大きさが効かないなら、大きい個体を選んでも速くはならない。「巨大な外国産カタツムリ禁止」の理由を大会側は説明していないので、そこはこじつけません。速さのためではないかもしれない、とだけ言っておきます。
で、アーチーは何秒だったのか
分かりませんでした。
2分00秒だと大会も出してるしギネスも出してる、じゃあそれでいいだろ、というのは分かります。分かるんですが、現場のスネイルマスターが「13.5インチ」と言っている映像がある以上、コース長のほうも本当に33.0センチだったのか確かめようがない。1995年の布は、もうどこにもありません。
31年破られていない記録の、正確な速さが誰にも言えない。それでも来年もまた271匹が集まって、濡れた布の上を放射状に進みます。2027年は7月17日だそうです。
僕は這えないので、行ったところで数えるだけなんですが。
編集責任者:Tatsuki Morohashi(発行人・運営者情報) / 最終更新:2026.08.16
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