ネットの笑いは、いつのまにか草になっていた。
要点:文章で笑いを示す記号は、「(笑)」から「(warai」「(w」「w」「wwww」を経て、いまや「草」に落ち着きました。声も表情もない画面の上で、笑いは省略と見立てを重ね、最終的に「植物が生える」という妙な地点へたどり着いています。その道のりを、淡々と辿ってみます。
誰かの投稿に「草」と返す。あるいは「それは草」「大草原」と書く。いまや説明の要らない笑いの合図ですが、字面だけ見れば、人が笑っているのか野原の話をしているのか判然としません。笑いを表す記号が、なぜ植物になったのか。さかのぼると、この一文字は思いのほか長い道を歩いてきていました。
そもそも「(笑)」は、書き手が笑っていなかった
出発点の「(笑)」は、ネットが生まれるよりずっと前からあります。もともとは議会や法廷の速記録で、その場の様子を書き添えるための記号でした。明治期の『速記雑誌』1890年(明治23年)の号にすでに「(笑)」が見え、帝国議会の議事録には「(笑聲)」「(拍手)」といった描写が残っています。
つまり最初の「(笑)」は、書いた本人の感情ではなく、その場にいた第三者の反応を客観的に記す注記でした。「(一同笑う)」の類です。書き手が「私はいま笑っています」と申告する道具になったのは、ずっと後のこと。記号の出自としては、むしろ冷静な観察メモだったわけです。
アルファベットしか打てない場所で、笑いは削られた
その「(笑)」がネットの手にかかると、猛烈に短くなっていきます。よく語られる起源が、海外製オンラインゲームでの出来事です。1996年発売の『Diablo』のように、日本語入力が使えずローマ字でしか打てない環境で、プレイヤーは「(笑)」の代わりに「(warai)」と書いた。それが面倒で「(w」に縮み、やがて「w」一文字になった——という筋書きです。ただしこれは広く語られてはいるものの、確たる一次資料で裏づけられた話ではなく、有力な一説と受け止めておくのが無難です。
「w」を『2ちゃんねる』発祥とする説もありますが、こちらは懐疑的な見方も出ています。ゲーム内チャットのような即時性・省力化の必然が掲示板にはない、という指摘です。実際に「w」を好きな数だけ並べる使い方が広まったのは2002年頃、半角の「w」が一般化したのは2003年以降とされます。いずれにせよ、笑いは「文字数を削る」方向へ進化していきました。
「(笑)」は他人の反応の記録から、自分の申告へ。そして削れるだけ削られ、ついには一文字の子音になった。
そして誰かが、それを草だと言った
ここで話が折れ曲がります。「w」を大量に並べた「wwwww」を眺めた誰かが、地面から草が生えているように見える、と言い出した。字形を風景に見立てたわけです。この見立てから、笑いを名詞化した「草」、動詞的な「草生える」、量が多いときの「大草原」といった言い回しが派生していきます。普及の時期については諸説あり、2010年代前半に「草」「草生える」が広まり、以降に派生表現が増えていった、とされています。
面白いのは、進化の方向がここで変わっていることです。「(笑)」→「w」までは、ひたすら短く・簡素にする省略の歴史でした。ところが「草」への転換は、省略ではなく見立て——字の形を別のものに見る、想像の操作です。効率化の果てに、いきなり詩的な飛躍が挟まった。この気まぐれさが、いかにもネットの言葉らしいところです。
| 時期の目安 | 表記 | 正体・見立て |
|---|---|---|
| 戦前〜(速記録) | (笑)/(笑聲) | その場の反応を記す注記 |
| 1990年代後半〜 | (warai) → (w | ローマ字環境での省略(一説) |
| 2002〜03年頃 | w/wwww | 一文字化・連打が定着(とされる) |
| 2010年代前半〜 | 草/草生える/大草原 | 連打を「草」と見立てて名詞化 |
※時期はネット上の資料に基づく目安で、コミュニティごとに前後します。厳密な「初出」を一点に定められるものではありません。
声を失った笑いは、風景になった
並べ直すと、この記号は妙な旅をしています。もとは声(笑い声)を文字に写した注記で、それがローマ字に翻訳され、子音一つに削られ、最後は文字の形から草原という風景に変換された。声→文字→記号→風景、と段階ごとに姿を変えているのに、意味だけは「笑い」のまま保たれている。
考えてみれば、画面の向こうの相手が本当に笑ったかどうかは、誰にも分かりません。私たちは声の代わりに草を植え、相手もまた草で応じる。誰一人声を出していないのに、スレッドには草が生い茂っていく。笑いの表現としては、ずいぶん静かな最終形です。次に「草」と打つとき、自分がいま無言で草を育てている、という事実を思い出しても、たぶん何の役にも立ちません。どうでもいい話です。